アルク城、ブハラ
ブハラのアルク城は、古代における国家権力の象徴とされています。遥か昔から、この壮大な要塞はブハラの中心に位置し、街を治める支配者たちの居住地および拠点として機能してきました。
アルクの歴史には未解明な点も多く、その正確な創建年代は定かではありませんが、少なくとも1500年以上前には、すでに支配者の住居として存在していたことがわかっています。この建造物は、照りつける太陽のもと、機械の力に頼ることなく、人工の丘の上に築かれました。建設には、多くの労働者が動員されたと考えられています。
アルクは何世紀にもわたり、ブハラのアミールの主要な住居であり、地域の政治的・行政的中心地として機能し続けました。その城壁の内側には統治者のみならず、ルダキー、フェルドウスィー、イブン・スィーナー(アヴィセンナ)、アル・ファーラービー、オマル・ハイヤームといった、著名な詩人や哲学者、学者たちも訪れ、あるいは逗留したと伝えられています。
よく知られている伝承によれば、アルク城の建設は、アジアの民間伝承に登場する英雄シヤヴシュによるものとされています。物語によると、シヤヴシュは継母からの不当な誘惑を避けて旅に出た末、豊かな砂漠のオアシスへとたどり着きました。そこで彼は地元の王の娘と出会い、恋に落ちます。しかし王は、娘との結婚を許す条件として、「雄牛の皮に収まる土地に宮殿を建てよ」という難題を課しました。シヤヴシュは機転を利かせ、牛の皮を細かく切って長い紐状にし、それを円形に広げて土地を囲い、その中に見事に宮殿を建て上げたと伝えられています。この伝説によれば、こうしてアルク城が誕生したとされています。
アルク城は現在、レギスタン広場の上に堂々とそびえ立ち、力と権威、さらには難攻不落の象徴として知られています。しかしその「無敵」というイメージは幻想にすぎず、長い歴史の中で幾度も破壊と再建を繰り返してきました。
この要塞は多くの激しい戦火を経験しています。例えば、1220年にチンギス・ハーン率いるモンゴル軍がブハラを侵攻した際、市民たちはアルク内に避難しましたが、モンゴル軍は要塞を突破し、守備隊を壊滅させ、財宝を略奪し、建物を破壊しました。
何世紀にもわたり、ブハラでは反乱や政変がたびたび発生し、そのたびにアルクは圧政や権力の象徴と見なされました。門には人々の怒りを示す石が投げつけられたとも言われています。革命以前、要塞内には2,000人以上の人々が居住していたとされますが、最終的には進軍してきた赤軍によって陥落しました。
外から見る現代のアルクは、巨大な土塁のような印象を与えます。その形状は西から東へと伸びる不規則な長方形で、外壁の全長は約789.6メートル、敷地面積はおよそ3.96ヘクタールに及びます。隣接するレギスタン広場からの高さは、地点によって異なり、16メートルから20メートルの範囲です。
正面玄関は、二つの高い円筒形の塔に囲まれており、その上には連絡通路としてのギャラリーが設けられ、そのさらに上階にはテラスへ通じる部屋があります。緩やかな傾斜の道が門へと続き、長い屋根付きの通路を通って、ジュマ・モスクへと至ります。約20メートルにわたるこの傾斜路は、重厚な石製の手すりによって縁取られています。
門の内側には、かつて水や砂の貯蔵、あるいは牢獄として使われていたとされる部屋が並ぶ、薄暗い通路が続いています。この通路を抜けると、広大な建物群が広がります。アルクの東半分は現在、考古学的遺構として保存されており、その一角には、伝説によればかつて40人の少女が拷問された後、井戸に投げ込まれたと伝えられる「ウルドゥクタロン・モスク」も残されています。また、要塞内部には、19世紀にブハラのアミールとその宮廷のために建てられた「ジョミ宮殿モスク」が現存しており、見学が可能です。このほか、保存状態の良い建造物として、造幣局、ハンマーム(公共浴場)、その他様々な実用施設が確認されています。