ナヴォイ近郊のラバト・イ・マリク
ナヴォイ市から数キロ離れたゴロドナヤ草原には、ラバト・イ・マリクとして知られる、カラハン朝時代の中世遺跡があります。現在残っているのは、その基礎部分と入口の門のみです。門には、未知の職人によって刻まれた古代の銘文があり、次のように記されています。「この記念碑は世界のスルタンによって建設され、この廃墟となった場所(マリク草原の領域)は整備された……」19世紀末までに、この記念碑の歴史は地元住民の間で忘れ去られ、残された入口の門は「ブハラ門」と呼ばれるようになりました。
この遺跡について最初に公に言及されたのは、1841年から1842年にかけてのブハラ使節団の際でした。当時27歳だった自然科学者レマンがスケッチを描き、20世紀にはほとんど残されていなかった中庭の様子についても詳細に記録を残しました。
ラバト・イ・マリクはかつて隊商宿であったという説が提唱されましたが、考古学的発掘の結果、カラハン朝の支配者の夏の宮殿であったことが明らかになりました。カラハン朝の支配者たちは遊牧生活を送っていたため、毎年夏になると冬の宮殿を離れ、草原にある夏の宮殿へと移動しました。ラバト・イ・マリクは、そのような夏の宮殿のひとつであったと考えられています。
ラバト・イ・マリクの発掘調査により、2つの中庭、ギャラリー、小さなモスク、浴場が発見されました。すべての部屋は豪華に装飾されており、ガンチ(石膏装飾)や彫刻が施された無釉のテラコッタが使用されていました。また、遺跡からは水差し、タゴラ、フム、鍋、フラスコ、ケトル、細口のデカンタなど、さまざまな陶器が出土しました。さらに、記念碑を囲む二重の城壁の遺跡も発見され、ラバト・イ・マリクが防御機能を持つ建築物であったことが確認されました。城壁の厚さは約1.70~1.80メートルに及びます。
ラバト・イ・マリクは、現在も遺構が残る唯一のカラハン朝時代の宮殿です。中央アジア全域において、カラハン朝の支配者の日常生活を垣間見ることができる類似の建築物は他に存在しません。現在、この遺跡は観光客向けに公開されており、訪れる人々に強い印象を与えます。過去数年間に修復工事が実施され、入口の門とその周辺の壁の一部が再建されました。これにより、12世紀のカラハン朝時代の建築様式を再現した姿を垣間見ることができます。
ラバト・イ・マリクは多機能を備えた建築物でした。カラハン朝の夏の宮殿として使用されるとともに、包囲戦にも耐えられる堅固な要塞としての役割も果たしていました。カラハン朝が崩壊した後も、この場所は歴史的に重要な地点であり続け、ティムール朝やシャイバーニー朝の代表者たちも、旅の途中でここに立ち寄ったと伝えられています。
サルドバ貯水池
ラバト・イ・マリクの近くには、「サルドバ」と呼ばれる巨大な貯水池があります。この貯水池は11世紀にラバト・イ・マリクへ水を供給するために特別に建設されたもので、高さは13メートルに及びます。貯水池には、地下水路を通じてザラフシャン川から水が供給され、夏の間も安定して水を蓄えることができました。さらに、高さ12メートルのドームが設置され、太陽の熱から水を守ることで、清潔で冷たい水を保つ仕組みが採用されていました。サルドバへの降り口は入り口付近にあり、シルクロードを行き交うキャラバンや旅人にとって、貴重な飲料水の供給源となっていました。